価値を再認識するUXデザイン
iPhoneXS に変えた話は前に書きましたが、それから快適に使えています。
まぁ前の機種を購入後すぐに浸水させて、2年以上動作不良に悩まされながら使っていた身からすると、普通に使えるようになったというだけでかなりの進歩です。
ここでひとつUXの格言、
素晴らしいユーザー体験を提供したいなら、事前に素晴らしくダメなユーザー体験を提供しておくとよい
・・・まぁ冗談です。
既にある良い体験は目につきにくい
ただ、ここまで考えてみて思うのが、既にある良い体験というのは、とても目につきにくいということです。
先日私がよく使う駅のエスカレーターが工事に入り、階段しか使えなくなりました。
これで通勤時間帯に大渋滞が起こり、「迷惑だなぁ」とか口にしているのを何度か聞きました。
ひとりで歩いているとなかなか口にできないものの、同じようなことを心の中で思った人は多いはずです。
私もそのうちのひとりですが、そういう状況になるまで、誰もエスカレーターに感謝をしたことなどないと思います。
似たような話はよく聞きます。
海外旅行から帰ってきて、日本の電車の正確さやトイレのきれいさに気づかされるとか、病気になって健康のありがたみが身に染みるとか。
お釈迦様と牛飼いの話
昔聞いたことのある、以下のような仏教説話を思い出しました。
あるとき、一人の男の人がお釈迦様にお願いに来ました。
「お釈迦様、私の家は狭いので広くしたいのですが、どうすればよいのでしょうか?」
「よろしい、それでは家の中で牛を一頭飼いなさい。そうすれば家が広くなるでしょう。」
しばらくして、
「お釈迦様、お言葉通り牛を飼いはじめましたが、家は一向に広くなりません。」
「よろしい。では家の中にもう一頭飼いなさい。そうすれば家が広くなるでしょう。」
「お釈迦様、お言葉通り(ry」「よろしい。ではもう一頭(ry」
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「お釈迦様、もう牛どころか私たちも生活できる場所もありません。。」
「よろしい。では家の中からすべての牛を出しなさい。そうすれば家が広くなるでしょう。」
「広くなりました!」
こんな感じの話なのですが、この話をいろいろとネットで探してみても、ひったりの話を見つけることができませんでした。
どなたか正確な話をご存じの方は教えてください。
これはいわゆる「足るを知る」を諭した説話だと思います。
家が広くなってめでたしめでたし、ではなく、家が広かったことを気づかされる、というわけです。
価値を再認識する機会を得ること
ここでの趣旨は、我慢をさせればよいということではありません。
今享受している価値を再認識する機会を与えるとよいのでは、ということだと思います。
今の生活の豊かさ、便利さを実感でき、今も十分幸せであることを改めて確認できること。
日々新しいユーザー体験とか、革新的なユーザー体験(?)を追い求めがちなところがありますが、そうした価値を再認識できる機会を得るための UXデザインを考えてみるのもおもしろいのではないかなと思います。